縄文・弥生・古墳・飛鳥・奈良時代

国見町周辺では、一万年以上も前から人々が暮らしてきました。弥生時代には農耕が始まり、地域を支配する豪族が現れ、やがて古墳時代が到来します。福島県内でも有数の古墳地帯で、塚野目地区をはじめ、森山・大木戸地区などに古墳群が見られます。
古代、この地方は伊達郷といわれ、8世紀ごろには東北地方でも有数の開田が発展し、大木戸窯跡では須恵器が製造されています。
奈良時代には、壮大な伽藍を有していたといわれる徳江廃寺が創建され、旋回花紋や蓮華文軒丸瓦などが出土しています。また、山居遺跡では、製鉄がおこなわれていたことも明らかになっています。

平安・鎌倉・室町時代

平安時代末期の文治5年(1189)に、この地で繰り広げられた阿津賀志山の戦いは、源頼朝率いる鎌倉軍と藤原泰衡率いる奥州軍との戦いの中でも最大の攻防戦で、政治の中枢が公家から武家へ移る契機となった戦いでもあります。鎌倉軍を迎え撃つために奥州藤原軍が築いた阿津賀志山防塁(通称:二重掘)は、阿津賀志山の中腹から阿武隈川までの約3キロメートルにわたる要塞施設でした。元冦防塁(福岡市)や水城防塁(大宰府)と並ぶ日本三大防塁の一つです。この戦いで戦功のあった中村朝宗はこの地を賜り、伊達氏と称し、後の伊達政依は光明寺など伊達五山を建立しました。(伊達政宗は17代目にあたる)
徳治3年(1308)には、帰化僧「寧一山」による石母田供養石塔が建立されました。
さらに鎌倉時代から室町時代にかけて、伊達氏の家臣たちによって、森山舘や石母田城などが構築されています。

安土桃山・江戸時代

戦国時代、安土桃山時代を経て、寛文4年(1664)、この地域は上杉氏の支配下に置かれ、以降幾多の藩支配の変遷を繰り返しながら、明治維新を迎えます。この間、西根上堰が開さくされて水田開発や農業の技術開発が進み、奥州街道・羽州街道の宿として藤田、貝田、小坂の宿がにぎわいました。芭蕉も「奥の細道」の中で、「路縦横に踏んで伊達の大木戸を越す」と記しています。
徳江海岸では江戸への御城米の積み出しが盛んに行われるとともに、江戸末期には日本三大銀山の一つ「半田銀山」も活況を呈しました。ここで開発された技術に「ハンダ付け」があります。
寛延2年(1749)、桑折代官の暴政に反発した農民たちが信達大一揆を起こし、慶応2年(1866)には信達両郡でも物価の引き下げを要求して世直し一揆が起こり、打ち壊しが行われました。

明治維新以降

明治政府の廃藩置県によって、現在の国見町は福島県の管轄になります。明治6年には泉田小学校(現・泉秀寺)が開校。20年(1887)には上野・塩釜間に鉄道が開通し、33年(1900)には藤田駅が設けられました。また、22年(1889)には市町村制が施行され、小坂村、藤田村、森江野村、大木戸村、大枝村の基が形成されました。
大正4年(1915)に、藤田村は、町制を施行して藤田町となり、昭和29年(1954)には、昭和の町村大合併によって小坂村、藤田町、森江野村、大木戸村そして大枝村が合併して国見町となり、現在にいたります。町名は、「国を見はるかす町」との意味が込められえいます。